レクイエム・マイ・ドリーム

日々思ったこと、感じたことを書きます。

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「感情は言葉に左右されること」と「憂鬱さをどう乗り越えていくのか」について

多くの人は、思ったことを写し取ったものが言葉だと思っている。
つまり、感情が先で言葉が後だということだ。
寒いと感じた後に、「寒いなあ」と言う。
それは明確に、思う方が先だ。
しかし、世の中はそんなに単純なことばかりではない。
感情は、言葉によって左右される部分もあると思う。
やってみればわかるが、「死にたい」と延々とつぶやき続けるだけでも、かなり気分は落ち込む。
フラットな精神状態でも、「本当は死にたいんじゃないか?」と思えてくる。
つまり、自己洗脳とか自己暗示みたいなことは有効だ。
「自分が今現在、こういう人間である」と思うこと自体が、一種の自己暗示みたいなものだ。
という事は、自分でその暗示をかけなおすことだって出来る。
ただ、催眠術みたいなものなので、かかりやすい人とかかりにくい人はいるだろう。
昔の人は、たぶんこういうことを言霊と言ったのかもしれない。
ただ、「言ったことが、そのまま叶う」なんてことはない。
言ったことが「感情以外の部分に影響がある」なんてことは、たぶんない。
自分が何もしないのに、勝手に結果が良くなるなんてのは嘘だ。
昔、自己啓発セミナーの映像を見たことがある。
「自分は○○で成功する!」
「いつか大金持ちになる!」
みたいな目標を、大声で叫ばせていた。
別に、否定はしない。
それによって気持ちが変わって、行動を起こせるなら別にいい。
しかし、それが行き過ぎると変な宗教っぽくならなくもない。
この前、テレビで芸能人が「ポジティブな言葉を唱えると運が回ってくる」みたいなことを言っていた。
それは流石に、あり得ない。
たとえその人の場合はそうだったとしても、それはその人が運が良かっただけで、何もしなくても回ってきていたはずだ。
それを自分が信じるだけならいいが、他人に宣伝して騙すのは、やめてほしい。
「寝てて儲かる」みたいな詐欺話とあんまり変わらない。
あくまで、言葉によって支えることが出来るのは、気持ちだけだ。
ただ、気持ちが変われば、それが行動にもなり、結果になる可能性があるというだけだ。
だから、気持ちが落ち込んだ時は、多少無理してでも「自分は大丈夫だ」と思うようにしよう。
そうやって、憂鬱な日々を何とか乗り越えていくしかない。

「過去によって現在と未来を語ることの不満」と「性格は変えられること」について

僕は、過去によって現在や未来の事を語る人が嫌いだ。

そんなもの、ただの目論見に過ぎない。

過去と現在および未来は違う。

過去は、ただの結果の集積だ。

もちろん、過去の結果によって見えてくる未来もある。

受験生なら、模試の結果で受ける大学を決めなければいけない。

勉強やスポーツみたいな、すぐに変えられないものは、過去で語る事には意味がある。

しかし、今すぐ変えられるものについては、過去によって語ることは無意味だ。

僕は「私は根暗なんです」ということを、人前で平然と言うやつが嫌いだ。

そんなもの、「お前が今まで暗かったというだけだろ」と思う。

それで、「変わらない方が楽だ」という判断で、今も暗くあるというだけだ。

本当に明るくなった方がいいと思うなら、「少なくとも大事な人の前だけではする」という判断はするべきだ。

つまり性格だって、本人にその気があれば、いくらでも変えることが出来る。

上辺の対応だけでいいのなら、なおさらだ。

そんなものは後天的に、習得できるスキルだ。

「根本的に明るくなる」はすぐには無理でも。「明るく振舞う」なら出来る。

つまり、過去の結果が未来の予測とつながるとは、必ずしも限らないのだ。

だけど世の中の人の多くは、そうは思わない。

人生に対して希望を失っている人の多くは、「過去にダメだったから、自分は次もダメに決まってる」という勝手な思い込みに支配されていることが多い。

それは「自分はずっと過去の自分と変わらない」と思うからだ。

既に決まった未来なんて、今の時点では存在しないのだ。

そう思っていないと、過去の自分に塗りつぶされることになる。

容姿も頭の良さも身長も国籍も性別も、簡単に変えることは出来ない。

ただ、自分の気持ちは、自分次第ですぐにでも変えることが出来るのだ。

「好きにもレベルはあること」と「いずれはプロを目指すようになること」について

よく、「好きな気持ちは測れない」みたいなことを言う。

「好きな気持ちは、みんな平等だ」ということだ。

だけど、本当にそうなのだろうか。

僕が「何かを好きだ」と思うこの気持ちと、他人の「何かを好きだ」と思う気持ちは、本当に平等なのだろうか。

例えば、僕はコーヒーを、よく飲む。

よく、というレベルじゃないかもしれない。

1日の摂取する水分のほとんどが、コーヒーだ。

よっぽどじゃない限り、他のものは飲まない。

だけど、明確にコーヒーの種類は「何でもいい」。

苦すぎるとか甘すぎるくらいはあるが、特にうまいコーヒーが飲みたいとは思わない。

マクドナルドのでも、スーパーで売ってるペットボトルのでも、何でも文句は言わない。

ただ、コーヒーという形態をとってさえいればいい。

果たしてこれは、僕は「コーヒー好き」と言えるのだろうか。

別に名乗ったところで、怒られはしないだろう。

ただ、世の中には「真のコーヒー好き」と言える人がいることを、僕は知っている。

マイボトルを持ち歩いて、自分でブレンドした豆をちょうどいい温度で挽いて、水も厳選して作るような連中だ。

僕には、そういう人たちの気持ちはわからない。

そこまでする、情熱がわからない。

極論、僕は明日コーヒーが地上から全てなくなっても構わないと思っている。

「残念だけど、まあしょうがないか」くらいのもんだ。

まあ、僕のコーヒー好きは、それくらいの「好きさ」ということだ。

真のコーヒー好きは、飲むだけじゃなくて、知識もコストも時間もありったけ費やす人のことだ。

マニアという言葉が、1番近いかもしれない。

もっと行き過ぎて好きになると、自分で喫茶店を開く。

必然的に、そうなる。

だって、プロになれば、もっと好きなものに没頭することが出来るのだから。

単純に、24時間その事について考えていいのだ。

というか、考えるべきである。

設備投資も、研究のために使える予算だって取れる。

趣味でやってるアマチュアだと、精々働きながら、平日夜に数時間取れたらいい方だ。

ただ、プロになったら責任は取らなきゃいけない。

いい物を提供して、採算を考えなきゃいけない。

自分の好きな事をやっていいのは、アマチュアだけだ。

ただ、それに尻込みして「プロになりたい」と思わないアマチュアは、所詮その程度の好きさだということだ。

だから僕自身は、「コーヒーをよく飲む人」で、「コーヒー好きな人」だとは思っていない。

その好きの定義は、あらゆることに言える。

例えば「真のお笑い好き」は、最終的に、研究しまくって「自分もやってみよう、ネタを作ってみよう」という段階にまで達する。

これは、絶対だ。

「プロの芸人になろう」と思うかは別にして、本当に好きなら「自分でちょっと作ってみよう」までは行く。

他人に見せるかどうかは別にしても、人知れず自分でネタを書いてみた事のないお笑いマニアは、まずいないだろう。

逆に言えば、そこまで行かない時点で、「所詮そこまでの好きさ」だとも言える。

本当にめちゃくちゃ漫画好きなら、読んだり集めたりするだけじゃなく、「描いてみたい」と思うはずだ。

出来るか出来ないかは、全くの別問題として。

僕はサッカーの試合観戦に、よく行く。

ただ、あくまで「見るのが好き」な程度の好きさだ。

本当にもっと熱のある人間なら、サッカー戦術の本を買いまくってるだろう。

それでも満足しきれなかったら、コーチを目指して、そのための勉強をするだろう。

それをやらないっていうことは、その程度のサッカー熱だということだ。

それを自覚している。

自分が「どの程度の好きさか」をちゃんと把握していないと、人生において痛い目を見る事がある。

好きだけど熱中して没頭するほどでもないのに、プロを目指してしまった場合だ。

自分の好きさを過大評価してしまったということだ。

その程度じゃ好きなものでも続けることは難しいし、最終的に嫌いになる場合もあるだろう。

「好きこそものの上手なれ」という言葉がある。

半分正解で、半分間違いだ。

よっぽどの天才じゃない限り、上手になれるかどうかは、好きで没頭し続けられるかどうかが大きい。

ただ、好きだからと言って、必ずしも上手になれるとは限らない。

結局のところ、「自分が好きで好きでしょうがなくて、それなら何時間でも没頭し続けられるもの」を探すべきなのだろう。

「やらない善よりやる偽善に対する不満」と「本当の善人になる方法」について

やらない善より、やる偽善。

僕はこの言葉が、あまり好きではない。

なぜなら、これを言う人はほとんどが、物事を「行為」でしか判断していないからだ。

そもそも、偽善と善の違いは何か。

大体の人は、人に見せつけるための善行を偽善だと思っているのだろう。

本当は違う。

それだったら、人前でやる善行だけが偽善になる。

そうじゃない。

僕は、人前でやる善行じゃなくて、たとえそれが匿名であっても、偽善にはなると思う。

それは偽善と善の違いが、それを行ったときの本人の精神性によるものだと思うからだ。

本当の善人は、善行を行ったときに自分は善行を行ったと思ってはいけない。

なぜならそれは、自分が善を行ったと思う時点で、その相手やそれを行わなかった他の誰かより、精神的優位に立ったことになるからだ。

それはつまり、自分の虚栄心を満たすことになる。

善を自覚を持ってするという事は、いわば心のオナニーだ。

「別に、それで何が悪いのだ」という人もいるだろう。

正直に言えば、そのこと自体は悪くはない。

ただ、虚栄心を満たすという事に関して言えば、気を付けなければいけない。

それはつまり、「自分を実際よりも少しでもよく見せたいという、欲の感情」に他ならない。

それを「まあ、いいや」で育てすぎるのは、はっきり言って危険だ。

だって、善行をするチャンスなんて、そんなに滅多にあるものじゃない。

だから、虚栄的な人は自分の心を満たすことに常に飢えている。

世の中にはびこる悪行のうち、虚栄心を根源にしているものは、結構ある。

たぶんイジメだって差別だって、「あいつらより優位に立ちたい」という気持ちをベースにしているだろう。

だから僕は、善ならいいけど偽善は危険だと思う。

じゃあ、どうやったらちゃんとした善を出来るのか。

本人の心の問題なんだから、心を鍛えるしかない。

つまり、いい事をしても、「自分はいい事をしたわけじゃない、これは当たり前のことだ」と思うように意識づける。

だけど、それは簡単じゃない。

無意識的にでも、「いい事したな」と思うのが人間だ。

そういう時には、即座に相手に対して「精神的優位に立って申し訳ない」と思う。

それをずっと繰り返す。

もちろん、最初から「やましい気持ち」のない本当に聖人のような本物の善人は、そんなことする必要が無い。

そうじゃない人間は、そうすることでしか、本当の善人には近づけないだろう。

僕だって、全然善人にはなれてないけど。

「人間の動物には無い抽象的な思考」と「どうやって人生の進路を決めていくのか」について

人間が、他の動物と決定的に違うこと。

それは、存在しない物事について考える事が出来ることだ。

つまり、抽象的な物事を考える事が出来る。

動物には、「生きる意味」とか、「社会正義」とか、概念的な思考は存在しない。

もっと言えば、「時間」とか「他者との関係」みたいな人間が勝手に作ったものも、動物にはないだろう。

ただひたすら、「どうやって生き延びるか」と「繁殖するか」が、動物にとっての問題だ。

考える事が出来るからと言って、必ずしも答えが出せるとは限らない。

だから、人間はバグる。

「死にたい」なんてのも、人間のバグの一種だ。

普通に考えたら、人間も動物の一種なので、「自分から死にたい」と思うことはあり得ない。

だけど、「就職難」とか「コロナ禍」とか「不況」みたいな目に見えない不安に怯えて、それから逃れるために死んでしまう。

僕は生死に関しては、動物的な方が正しいとさえ思っている。

つまり「どんな状況でも、まず生きるのが当たり前」と思うことだ。

社会的な問題にも、バグは起こりやすい。

「平和とは何か?どうやって実現できるか?」みたいなことを真剣に考え始めたら、誰だって頭がおかしくなる。

だからそういう問題には、無理に答えを出そうとしてはならない。

SNSを見ていると、「自分が出した答えが他人と違う!」とか、「世の中が間違っている!」とさかんに言い合っている人たちがいる。

当たり前だろう。

数学的に言えば、「前提となる条件」も「使っている法則」も、みんな違うんだから。

それで答え合わせをしあって、何の意味があるのだ。

だけど、個人の人生の問題となると、また話は違う。

自分の人生の場合は、何らかの答えを暫定的にでも出して、それに向かって動かなければいけない。

そうしないと、何もせず同じ場所にとどまっているだけになってしまう。

仮に今より悪い状況になる可能性があったとしても、何らかのアクションを起こすことが重要だ。

考えながら動いているうちに、何らかのもっといい策が見えてくる可能性もある。

そういう意味では、考え過ぎて足を止めるのが1番の悪手だ。

周りの恐れなくてもいいものを恐れすぎて、最終的に歩みを止めた人間もいるだろう。

そういう人間が、たぶんニートになる。

もちろん、全てではないだろうけど。

僕はそういう意味では、ニートという人種を「心底嫌い」ではない。

世の中は、ニートを「ただの無気力なやつ」だと決めつけすぎている。

中には、そういうやつもいるだろう。

ただ世の中を無用に恐れすぎているだけのニートには、必ずしもそうではないと思わせればいいだけだ。

少なくとも、盲滅法に何も考えずにやって、失敗ばかりする人間よりはマシだ。

そういう馬鹿には、つける薬が無い。

基本的に失敗から学ばないのだから。

なんだか、話がずれてしまった。

つまり、人間の抽象的概念を理解する能力っていうのは、長所になる場合もあれば、時として弱点になる場合もある。

大事なのは、それをちゃんと理解して生きていくっていうことだと思う。

「やらない後悔よりやって後悔」に対する不満と「新たな挑戦を始める際の決め手」について

やらないで後悔するより、やって後悔したほうがいい。

何かを始めるかどうか迷っている人に向けて言うアドバイス、もっと言うと名言っぽくもなっている言葉だ。

僕は、この言葉を信じない。

どこの誰が言い始めたのか知らないけど、「最初に考えたやつは、マジで無責任だな」と思う。

この言葉の1番ダメなところは、その無責任さだ。

相談者が「どのくらい失敗する確率があるのか」とか「本当に、どうしてもやりたいことなのか」を考えずに、ただ迷っている人の肩を押すだけだ。

「どう考えても無理だろ」っていうことを後押しするということは、その人を押して崖から突き落とすことに近い。

本当に親身になるなら、無責任に後押しするより、よく考えさせた方がいい。

また、この言葉は「自分自身への後押し」にも使われる。

「やらないで後悔するより、やって後悔する方がいいと思って始める」というわけだ。

それで本人が納得するならいいけど、「本当にそんなので続くのか?」というのは疑問だ。

大体、そんなことはほとんどのものに適用できるからだ。

例えば、「一時的な憧れ」とか「お金が儲かりそう」みたいな、何となくの理由でやってみたいと思う場合だ。

別にそういういわゆる不純な動機でも、成功するやつはいるだろう。

だから、「絶対にやめておけ」なんてことは言わない。

ただ、そんな理由で簡単に物事をやり始めても、長続きするかどうかは疑問だ。

別に、やめたところでまた次の道を探せばいい事も事実だ。

ただ、人生における時間の無駄だし、何よりまた、再起をかけるまでに気持ちを持って行くのも難しい。

1回失敗してはいすぐ次、とは人間は簡単にならない。

つまり、僕の中では「悩むくらいのやりたさなら、やめておいた方がいい」くらいの気持ちだ。

後悔の量みたいな、曖昧な基準を持ち出しちゃいけない。

決め手はそこじゃない。

「本当の本当に、めちゃくちゃ自分はそれをやりたいのか?」

「それをやって、仮に成功しなくても俺は耐えられるのか?」

「自分の考える成功までどれくらいの時間がかかる?成功率はどれくらい?」

というのを、ひたすら自分に問い続けて、それで「やると決めたらやる」のだ。

悩むくらいなら、ひとまずステイだ。

結論は、先延ばしにした方がいい。

「やらない後悔」と「やる後悔」の比較ではなく、単純に「やるかやらないか」で決めた方がいい。

僕は何か重大な物事を決めるときは、そうしている。

「自殺しなければいけない合理的な理由は存在するのか」と「自殺したい人を引き止める方法」について

2021年の日本の自殺者数は、2万830人。

人口10万人あたりの自殺者数は、16.5人。

まあ、こんなものはただの数字だ。

自分にとって真に重要なものは、自分と自分の周りの人間の自殺だ。

まず、確かに言えることが、一つだけある。

「自殺しなければいけない合理的な理由」なんてものは、存在しないということだ。

「死にたい」と思うことはあっても、「死ななきゃいけない」なんてことは、絶対にない。

「受験に落ちて自殺する学生」も、「リストラに遭って自殺するおっさん」も、そんなもの「死ななきゃいけない理由」にはならない。

借金をいくら抱えた人間だろうと、債務者から逃げるために手っ取り早く死にたいだけで、死ぬ必要はない。

そんなので死ぬのは、ただ目の前の事実から簡単に逃げたいだけだ。

正真正銘、考え抜いた末での自殺なんてのは、ありえない。

どこかで考えるのをやめて思考停止したから、自殺する。

イジメだろうとパワハラだろうと、「自殺に追い込まれてかわいそう」の前に、「死ぬ必要なんかない」。

行きたくない会社なら、行きたくないと思った瞬間に「辞めるモード」に切り替えろ。

学校なら、なおさらだ。

ただ、辞めた後どうなるかは自己責任だ。

とまあ、こんなところだけど、こんな論理なんかに、本当の意味はない。

本当に「今、この瞬間に死にたいと思ってるやつ」を目の前にしたら、こんなことをいったところで、引き止められるわけがない。

なぜなら、「死にたい」と思ってる時点で、そいつはパニックに陥っている。

「受験に落ちたから、クビになったから俺の人生は終わりだ。」

そう思い込んでいる人間に、どう論理的に説得しても無駄だ。

僕はそういう人を目の前にしたら、説得はしないだろう。

ただ、「今死ぬ必要無いんだったら、先に延ばしてみたらどうか」とは、提案する。

それが1日でも、1時間でも構わない。

人間の感情なんてものは、常に変わる。

絶対に不変の感情を持った人間なんて、いないと思っている。

「死にたい」なんてのは、目の前の困難に勝手に絶望した気持ちになってるだけだ。

1晩寝たら、別になんてことない気分になってることも有り得る。

僕だって、夜中に「死にたい」とまでは行かなくても、なんとなく将来を悲観して憂鬱な気分になることはある。

そういう時は、とにかく無理やりにでも寝て、気分をリフレッシュするしかない。

ネガティブな時は、どんどん勝手にダメな方向に物事を考えてしまう。

おそらく自殺を決行する人も、そうやって勝手にハマっていったのだろう。

僕は他人の人生にどうこう言うつもりは毛頭ないけど、自殺に関しては、「迷ったら延期する」くらいの気持ちであるべきだと思う。