「アドラー心理学」と「課題の分離」と「親の子供に対する期待」について
世の中には、絶対的に正しい事なんてないと思っている。
他人に対して、偉そうに「こう生きるべきだ」なんて言ってるやつは、まず信用できないと思っている。
昔、アドラー心理学の嫌われる勇気という本を読んだ。
「課題の分離」という事について書いてあった。
どういうことかと言うと、「自分と他人の課題を分けて考えるべき」ということだ。
例として書いてあったのは、「親が子供の将来を案じて、夢を諦めさせてまっとうな道を歩ませようとする」場合だったと思う。
「親の課題」と「子供の課題」は別で、「子供自身の人生をどうにかする」のは子供の課題だから、親といえども口出しするべきではない、みたいな話だった。
それに納得して以来、僕は事あるごとにこの「課題の分離」を思い出すことがある。
実際、世の中にはこれが出来ていない人は多い。
ただ、その事についてはよっぽどの事がない限り、他人に指摘はしない。
自分の親に対してすら、思っていても口にはしない。
僕の親戚で、交通事故の被害者の人がいる。
知らない人でも見てすぐにわかるくらい、重い障害を負っている。
話したことはほぼ無いが、葬式や法事の席ではいつも顔を会わす。
何と言うか、やりきれない気持ちに少しなる。
その人の母親も、もちろん親戚なので知っている。
そのおばさんと、偶然2人きりで話す機会があった。
「なんでこんな事になったんだ。悔しい」と、おばさんは言っていた。
半分、泣いていたと思う。
「お前は五体満足なんだから好きなことをしろよ」的な意味合いも、あったのかもしれない。
「かわいそうだ」とは思ったが、何も言えなかった。
むしろ、言わなくてもいい事を言わないように、押しとどめていた。
「そんなの仕方ないじゃん」と、言いそうになったわけではない。
ある意味もっと、意地が悪い事かもしれない。
「それって、課題が分離出来てないんじゃないの」と言おうかと思った。
しかし、結局何も言えなかった。
それを伝えたところでどうなるわけでもなく、むしろ害になると思ったからだ。
そのおばさんは、紛れもなく「面倒見が良くて、優しい人」である。
親戚は僕よりも明らかに年上で、おばさんもかなりの年配だ。
今さら、親子関係を変えることは難しいだろう。
あまり関係のない話をしてしまった。
僕が言いたいのは、「子供思いのいい親」が、子供を苦しめるし、本人自体が苦しむ場合もある、という事だ。
「子供の人生の成功」を、陰ながら願うのは良い。
問題は、「子供の成功」のために暗躍し、一喜一憂するタイプだ。
そういうタイプは、まず子供に「安全な道を歩ませよう」とする。
また、そういう親に育てられた子供の方も、「その期待」を敏感に感じ取る。
そして基本的には「いい子」なので、反抗できない。
だが、そうなっては子供は自分の人生を生きた気がしないだろう。
親を怨むかもしれない。
そうなっては、両者とも不幸になる。
結局、自分のやりたい事があるなら、周りに何と言われようとやった方がいい、ということだ。