「やらない善よりやる偽善に対する不満」と「本当の善人になる方法」について
やらない善より、やる偽善。
僕はこの言葉が、あまり好きではない。
なぜなら、これを言う人はほとんどが、物事を「行為」でしか判断していないからだ。
そもそも、偽善と善の違いは何か。
大体の人は、人に見せつけるための善行を偽善だと思っているのだろう。
本当は違う。
それだったら、人前でやる善行だけが偽善になる。
そうじゃない。
僕は、人前でやる善行じゃなくて、たとえそれが匿名であっても、偽善にはなると思う。
それは偽善と善の違いが、それを行ったときの本人の精神性によるものだと思うからだ。
本当の善人は、善行を行ったときに自分は善行を行ったと思ってはいけない。
なぜならそれは、自分が善を行ったと思う時点で、その相手やそれを行わなかった他の誰かより、精神的優位に立ったことになるからだ。
それはつまり、自分の虚栄心を満たすことになる。
善を自覚を持ってするという事は、いわば心のオナニーだ。
「別に、それで何が悪いのだ」という人もいるだろう。
正直に言えば、そのこと自体は悪くはない。
ただ、虚栄心を満たすという事に関して言えば、気を付けなければいけない。
それはつまり、「自分を実際よりも少しでもよく見せたいという、欲の感情」に他ならない。
それを「まあ、いいや」で育てすぎるのは、はっきり言って危険だ。
だって、善行をするチャンスなんて、そんなに滅多にあるものじゃない。
だから、虚栄的な人は自分の心を満たすことに常に飢えている。
世の中にはびこる悪行のうち、虚栄心を根源にしているものは、結構ある。
たぶんイジメだって差別だって、「あいつらより優位に立ちたい」という気持ちをベースにしているだろう。
だから僕は、善ならいいけど偽善は危険だと思う。
じゃあ、どうやったらちゃんとした善を出来るのか。
本人の心の問題なんだから、心を鍛えるしかない。
つまり、いい事をしても、「自分はいい事をしたわけじゃない、これは当たり前のことだ」と思うように意識づける。
だけど、それは簡単じゃない。
無意識的にでも、「いい事したな」と思うのが人間だ。
そういう時には、即座に相手に対して「精神的優位に立って申し訳ない」と思う。
それをずっと繰り返す。
もちろん、最初から「やましい気持ち」のない本当に聖人のような本物の善人は、そんなことする必要が無い。
そうじゃない人間は、そうすることでしか、本当の善人には近づけないだろう。
僕だって、全然善人にはなれてないけど。