「好きにもレベルはあること」と「いずれはプロを目指すようになること」について
よく、「好きな気持ちは測れない」みたいなことを言う。
「好きな気持ちは、みんな平等だ」ということだ。
だけど、本当にそうなのだろうか。
僕が「何かを好きだ」と思うこの気持ちと、他人の「何かを好きだ」と思う気持ちは、本当に平等なのだろうか。
例えば、僕はコーヒーを、よく飲む。
よく、というレベルじゃないかもしれない。
1日の摂取する水分のほとんどが、コーヒーだ。
よっぽどじゃない限り、他のものは飲まない。
だけど、明確にコーヒーの種類は「何でもいい」。
苦すぎるとか甘すぎるくらいはあるが、特にうまいコーヒーが飲みたいとは思わない。
マクドナルドのでも、スーパーで売ってるペットボトルのでも、何でも文句は言わない。
ただ、コーヒーという形態をとってさえいればいい。
果たしてこれは、僕は「コーヒー好き」と言えるのだろうか。
別に名乗ったところで、怒られはしないだろう。
ただ、世の中には「真のコーヒー好き」と言える人がいることを、僕は知っている。
マイボトルを持ち歩いて、自分でブレンドした豆をちょうどいい温度で挽いて、水も厳選して作るような連中だ。
僕には、そういう人たちの気持ちはわからない。
そこまでする、情熱がわからない。
極論、僕は明日コーヒーが地上から全てなくなっても構わないと思っている。
「残念だけど、まあしょうがないか」くらいのもんだ。
まあ、僕のコーヒー好きは、それくらいの「好きさ」ということだ。
真のコーヒー好きは、飲むだけじゃなくて、知識もコストも時間もありったけ費やす人のことだ。
マニアという言葉が、1番近いかもしれない。
もっと行き過ぎて好きになると、自分で喫茶店を開く。
必然的に、そうなる。
だって、プロになれば、もっと好きなものに没頭することが出来るのだから。
単純に、24時間その事について考えていいのだ。
というか、考えるべきである。
設備投資も、研究のために使える予算だって取れる。
趣味でやってるアマチュアだと、精々働きながら、平日夜に数時間取れたらいい方だ。
ただ、プロになったら責任は取らなきゃいけない。
いい物を提供して、採算を考えなきゃいけない。
自分の好きな事をやっていいのは、アマチュアだけだ。
ただ、それに尻込みして「プロになりたい」と思わないアマチュアは、所詮その程度の好きさだということだ。
だから僕自身は、「コーヒーをよく飲む人」で、「コーヒー好きな人」だとは思っていない。
その好きの定義は、あらゆることに言える。
例えば「真のお笑い好き」は、最終的に、研究しまくって「自分もやってみよう、ネタを作ってみよう」という段階にまで達する。
これは、絶対だ。
「プロの芸人になろう」と思うかは別にして、本当に好きなら「自分でちょっと作ってみよう」までは行く。
他人に見せるかどうかは別にしても、人知れず自分でネタを書いてみた事のないお笑いマニアは、まずいないだろう。
逆に言えば、そこまで行かない時点で、「所詮そこまでの好きさ」だとも言える。
本当にめちゃくちゃ漫画好きなら、読んだり集めたりするだけじゃなく、「描いてみたい」と思うはずだ。
出来るか出来ないかは、全くの別問題として。
僕はサッカーの試合観戦に、よく行く。
ただ、あくまで「見るのが好き」な程度の好きさだ。
本当にもっと熱のある人間なら、サッカー戦術の本を買いまくってるだろう。
それでも満足しきれなかったら、コーチを目指して、そのための勉強をするだろう。
それをやらないっていうことは、その程度のサッカー熱だということだ。
それを自覚している。
自分が「どの程度の好きさか」をちゃんと把握していないと、人生において痛い目を見る事がある。
好きだけど熱中して没頭するほどでもないのに、プロを目指してしまった場合だ。
自分の好きさを過大評価してしまったということだ。
その程度じゃ好きなものでも続けることは難しいし、最終的に嫌いになる場合もあるだろう。
「好きこそものの上手なれ」という言葉がある。
半分正解で、半分間違いだ。
よっぽどの天才じゃない限り、上手になれるかどうかは、好きで没頭し続けられるかどうかが大きい。
ただ、好きだからと言って、必ずしも上手になれるとは限らない。
結局のところ、「自分が好きで好きでしょうがなくて、それなら何時間でも没頭し続けられるもの」を探すべきなのだろう。