「M-1におけるシステム漫才の必要性」と「お笑いにおける地力とは何か」について
この前のNHKの笑いの正体で、かまいたちがM-1のシステム漫才について話していた。
それで思ったのだが、システム漫才についてちょっと書きたいことがある。
まず、明確にしておかなければいけないことがある。
漫才におけるシステムの必要性だ。
これは、漫才界全体において必要であるかの話ではない。
そんなものは、誰かが勝手にやってそれを評価するのだから、必要もへったくれもないだろう。
そうではなくて、個人における必要性だ。
つまりこれは、これを読んでいるあなただったり誰かが、「漫才をやろう」と思ったときに、システムを組む必要があるかどうかということだ。
結論から言うと、ただ面白い漫才をしたいだけなら、特に必要はない。
システムなんて組まなくても、面白い漫才は十分に出来る。
ただそれは、お笑いにおける強者にしか出来ない。
お笑いの強者というのはつまり、普通に喋っても面白いやつのことだ。
学生時代に主にクラスの人気者で、喋りも達者で、誰に教わったり考えたりもせずに普通にお笑いが出来るやつのことだ。
そういう「めちゃめちゃ面白い地力のあるやつ同士」が2人で組めば、特別なシステムなんてなくてもいい。
まあその典型が、「かまいたち」や「千鳥」だろう。
だから彼らは、いわゆる平場のトークでもめっちゃ強い。
つまりそういう人達にとっては、「平場のトークの延長線上にあるのが漫才」なわけだから、当然だ。
だけど、そういう人たち同士が組めることはそうない。
そういういわゆるお笑い強者じゃない弱者は、M-1で勝ち上がるためには何らかの策を講じなければいけない。
よく言われることだけど、「テンポを上げてボケ数を増やす」とかそういうことだ。
そういう実験を繰り返した先に誰かが新しい発見をしたのが、システム漫才ということなのだろう。
M-1の決勝はレベルが上がり過ぎて、今は何らかのシステムを組んだやつか、地力がめちゃめちゃ強いやつしか上がってこれなくなった。
本当の初期のM-1は、笑い飯以外はほぼ地力勝負な傾向が強かった。
今や1部の天才を除いては、M-1では普通の漫才じゃウケないと言っても過言ではない。
ファッションにおける最新モードみたいなものだ。
見取り図みたいなずば抜けたワードセンスでもない限り、普通の漫才でちょっと強いくらいのやつだと決勝ではまあまあスベる。
そういう中で審査しなきゃいけない審査員は、本当に難しいだろう。
「何を基準にすべきか」みたいなみたいなところから、人それぞれ違う。
「古き良き漫才らしさ」なのか「目新しい斬新さ」なのかによっても変わってくる。
ただ、単純に見てる方からしたら、毎年どんな新しいものが出てくるか、楽しみではある。